総合研究推進機構 : ブリュノ・クレマン講演「もうひとつの声の必要― モーリス・ブランショとプロソポペイア(活喩法)」報告
投稿者: kguramo 投稿日時: 2013-3-26 9:06:00 (2077 ヒット)

          ブリュノ・クレマン講演「もうひとつの声の必要― モーリス・ブランショとプロソポペイア(活喩法)」報告
 

 3月9日(土)、本学文学部キャンパスにて日本フランス語フランス文学会関東支部大会が開催された。当日は天候にも恵まれ、100名を超す参加者がキャンパスを訪れた。受付や会場案内を手伝ってくれた文学部の3年生も大活躍であった。
 さて、今回の大会では特別講演として、日本学術振興会の外国人招聘研究者事業(短期)により招聘したパリ第8大学教授ブリュノ・クレマン氏(1952-)に講演していただいた。クレマン氏は、筆者がいまから約10年前、フランス留学中に国際哲学コレージュ(大学とは異なり一般に開かれている高等教育機関)で行われていたゼミに出席して大いに啓発され、執筆中の博士論文に大きなヒントをいただいたうえに、その審査員にもなっていただいた先生である。その縁で今回お招きすることができたのだが、その最初のきっかけとなったゼミが、まさに、今回の講演テーマである「プロソポペイア」をめぐるものであった。それから10年を経て、自分の勤務校で同じテーマの展開を披露していただけるとは――しかも、筆者の研究対象であるモーリス・ブランショをテクストに選んでくださった――感慨深いものがあった。以下、 クレマン氏の研究および「プロソポペイア」という文彩について簡単に説明したうえで、講演の報告を行いたい。
 クレマン氏の研究の出発点は、劇作家・小説家サミュエル・ベケットの研究にある。処女作『特性のない作品 サミュエル・ベケットの修辞学』以来、数多くのベケット論を著しており、ベケット研究の第一人者である。しかし同時に、『古典悲劇』、『読者とそのモデル ヴォルテール、パスカル、ユーゴー、シェイクスピア、サルトル、フローベール』、『註釈の発明、アウグスティヌス、ジャック・デリダ』、『方法の物語』、そして新刊『垂直の声』といった著作があり、共編著や主幹雑誌も多様なテーマにわたる。日本語訳としては、今月刊行のベケット論集『ベケットを見る八つの方法』(水声社)に所収されている「「ところでこれは何の声?」」(西村和泉訳)がある。
 上に挙げた著作からもわかるように、氏の研究はベケット研究にとどまるものではなく、時代においても領域においてもきわめて幅広い作品を対象としている。このことは、最初のベケット論から一貫している氏の方法論によるものである。その方法論とは、小説と理論、文学と哲学、虚構と非虚構といった境界を越えて、氏の言葉で言えば「本質的なテクスト性」に照準を合わせ、あらゆるテクストに対して「詩学」と「修辞学」という2つの軸から分析を行うことである。文学的テクストが対象であれ、哲学的テクストが対象であれ、氏の研究はつねに「フィギュール(figure)(文彩・比喩形象)」をキーワードとしている。近年では、哲学的・理論的テクストを分析対象とすることが多いが、その場合に行われるのも、哲学的テクストをあくまで「文学的手法で分析する」ことである。哲学者も「書く」、その意味で「作家」である、という動かしがたい事実に氏はつねに注目する。「書く」以上、そこには「書く」ことに伴う諸々の問題――虚構性、物語性、自伝性、修辞性、そうしたものの総体としての「詩学」――が生起しないわけにはいかないからである。
 こうした問題関心に貫かれた氏の近年の研究は、2つの方向性を取っている。一つは個々の作家に特徴的に見られる書き方、文体についての研究であり、もう一つは様々な作家のテクストを貫いて現れるある手法についての研究である。新刊で論じられ、今回の講演で展開された「プロソポペイア(活喩法、擬人法)」というフィギュールについての研究は、この後者の研究の一環である。
 「プロソポペイア」とは、語源から言えば、「顔」ないし「仮面」(prosopon)を「つくる」(poiein)ということであり、(登場)人物を作り出すことを意味するが、修辞技法としては、その場にいない者、あるいは現実に存在しないもの、さらには生命をもたないものに声を与えることであり、クレマン氏はこの「声」という主題をとりわけ重視している。不在の者に声を与え、登場人物を作り出す、というと文学的テクストの特権のようだが、クレマン氏が注目するのは、実はこの文彩が、プラトンからルソー、そして現代の哲学者デリダに至るまで、哲学的・理論的テクストにも実に頻繁に見られるということである。実際、プラトンの『クリトン』やルソーの『学問芸術論』は修辞学においても「プロソポペイア」の典型例とされている。『クリトン』では獄中のソクラテスが、脱獄を勧めるクリトンに対し、「「国法」ならこう言うだろう」として「国法」に語らせ、国法を遵守する者として死を選ぶことになる。『学問芸術論』ではルソーが、古代ローマの執政官ファブリキウスがその後のローマを目にしたらこう言うだろう、という想定のもとで、ファブリキウスを生き返らせて語らせる。今回の講演は、このような文彩について、文学と哲学の閾で書き続けた文芸評論家・作家モーリス・ブランショ(1907-2003)のテクストを通して考察し、文学と哲学、のみならず、現実と虚構、自然と技術といった境界をも問い直そうとするものであった。以下、講演の概要をたどっておこう。
 ブランショの主著『終わりなき対話』(1969)の第一部は、「複数的な話し言葉」と題されている。ブランショが一貫して関心を抱いているのは、「書かれた言語」である文学言語であるのだが、ブランショにとって、考察に価する文学言語とは「複数的な話し言葉」なのである。『終わりなき対話』には、プロソポペイアとみなすことのできる箇所が多々見出されるが(講演ではいくつかのプロソポペイアが分析された)、プロソポペイアとは、「複数的な話し言葉」を作動させる技法である。ブランショは、20世紀の作家のうちでプロソポペイアの精神を行為遂行的(パフォーマティヴ)にもっとも深くつきつめた者だといえよう。プロソポペイアにおいて顕現するのは、たんなる対話の相手ではなく、根本的な他者性を孕んだ声である。そしてこの声は、必然的に(先の『クリトン』や『学問芸術論』の例でもわかるように)虚構的な声である。以上から導かれるのは、少なくともブランショにおいて、その評論はある種の虚構性において小説から区別されないということであり、思考することは、ある虚構的な比喩形象(フィギュール)(「フィギュール」は「文彩」と同時に、「図像」や「顔」、「人物」を意味する語でもある)を召喚することにほかならないということである。
 以上の概要からもおそらく伺われるように、クレマン氏の研究は、ベケットやブランショなど個々の具体的なテクストを扱いながらも、同時につねに、「テクスト」や言語をめぐる普遍的な問題提起を行っている。今回の講演でも、「フィギュール(figure)」というものが、言語にとって、「文彩」という訳語では到底カバーしきれないような多様なニュアンスを孕んだ――虚構性、形象性、複数性、他者性、等々――本質的な存在であることが示唆された。今回の講演を聴講したのはフランス語フランス文学の研究者たちであり、その専門は多岐にわたるが、いかなる時代、いかなる作家を研究対象としようとも、つねに「テクスト」、そして言語に対峙しなければならないことにおいてはみな同じであり、その限りで、この講演はすべての聴講者に根本的なところで訴えるものだったにちがいない。
(文学部・郷原佳以)


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